昭和43年11月5日 夜の御理解
「節を大事にしていけ」ということを言われます、それはその、人間誰しも一生の間には様々な節に出会うもんですが、その、節から折れる人もあれば、節から芽が出たり、え~また節から一節また伸びる人もあるわけです、ですから節を大事にせろということは、本当にその大事にさして頂くことによって、この節から芽が出る、ね、節からまた伸びると、いうのでなからなければ、私はならんと思うのです。
四神様のみ教えの中にも「難はみかげ」いや「難あって喜べ」と、ですね、教祖様は「難はみかげ」とこうおっしゃっておられますが、ん~、この例えば節を難といたしますならば、その難を大事にするということがね、え~この、そこから芽が出るとかそこから一節伸びるとかというから、難がみかげなのですよ、けどもその難を受けた、またそこを通り超えただけで、伸びるものもなからなければそこから芽が出るものも無かったら、それはやはり難は難だと私は思うですね、ですからそこんとこをですね、私共は一つ、お互い様々な節に出会ったがはたしてその節から自分の信心は芽が出ただろうか、その節から一節こう上に伸びただろうか、伸びていないとするならばですね、それはただ難は難をですねただ受けぬいたというだけであって、難はみかげになっていないわけなんですよ、ね、いわゆる難あって喜べという喜べないのですそれでは、ね。
今日私、壮年会の方達にはそこんところを一つ究明して、一つ共例して頂きたいとこう思う、私も本当なことはようと分からん、けれどもこれから体験を持って、言うならば、私の体っ、私の信心を皆さんがまあこう思い起こして下されば、(?)それもうんなら内容のことが分からん、ね、ですからあの、「毒を変じて薬」とこう言う、ね、その変じて薬にしなければやっぱ毒は毒だということなんですよ、ね、ですから私共うんなら、こうずっと、信心を頂くようになって此の方十年なら十年、ね、二十年なら二十年という自分の信心をです、確かにあの時は節だったじゃろうとこう思われるその節からはたして伸びとるか、どうかということをですね、ただおかげを頂いてはきたけれども伸びてはいない、芽は出てないとするならです、やっぱここに一つ多いに考えみなければならんことじゃないかとこう思うんですね、それを境に伸びとるか、そこから芽が出ておるか、ね。
どうぞ「難はみかげ」とおっしゃる、ね、または「難あって喜べ」と、はたして本当にそのことが喜べれるというとこに行っとらなかったら、やはりまだ難は難の姿のままだということ、難の実態というものは、それは神愛なんだ、ね、神愛なんだけれどもその神愛を分かって悟って、その神愛に触れなければ、ね、私はあの、やはり神様もセッカンをなさる、例えて言うならば言う事聞かんから親が子をセッカンするようにですね、セッカンするだけで、なら親の方が、のうこんっ、その、まあお詫びをしなければ改まりもせんもんですから、ね、( ? )にいかんわけ、それでそのセッカンから逃れただけではですね、いけないでしょうが、セッカンされた事によって、どう変ったのか、改まったのか、ね、いわゆる神様の願いであるところをこちらが分からしてもろうて、そこんところを一つ頂きぬいていくという信心、ね、そこんところをですね、はたして「難はみかげ」「難あって喜べ」とおっしゃるが、はたして難の、難のたんびに私はおかげを頂いてきておるか、なるほど頂きぬいたことは頂きぬいた、信心のあったおかげでそこをどうやら頂きぬいたけれども、おかげになっていないとするならば、ね、なら「難あって喜べ」とおっしゃるけれどその、喜びまでには出来ないのです、「あぁ本当にあの時は苦しかったけれども、あの、あれを境にこういうおかげを頂いて有り難い」というお礼になってくるのですよ、ね、だからこれはあまりにも、合楽では話されもし、また言われてもきたことですから、「難はみかげ」「難あって喜べ」と、はたしてその、なら難なら難、毒なら毒が変じて薬にならせて頂けるおかげを頂いておるかどうかということをですね、自問自答してみて、して、そしてそれを薬にするためにはどういうあり方にならなければ薬にならないか、節をそこから芽が出、ならそこから伸びるための、おぉおかげにしていくということはどういうようなことなのかということをね、究明してみたいと思うですね。 どうぞ。